神父の説教と、私の言葉 ――同じ福音をめぐる二つの重心
神父の説教と、私の言葉
――同じ福音をめぐる二つの重心
この日の礼拝で語られた神父の説教は、
「光」を一貫して神とキリストの側に属するものとして語っていた。
神は先に私たちを呼びかけ、
私たちを知り、
その光によって生かしてくださっている。
私たちは、その光を受け取り、
行いを通して、日々の生活の中で映していく。
そこには、
教会的な秩序、感謝、委ね、継承のリズムがある。
光は「授けられるもの」であり、
私たちはそれを預かる存在として位置づけられている。
一方で、私自身がこの福音を受け止める場所は、
やや異なる重心を持っている。
私の言葉は、
「光が与えられている」という確信からではなく、
弱さ、みっともなさ、語れなさから始まっている。
逃げられなかった場所。
無力さの中で、それでも立ち去らなかった時間。
十字架を前にして、
何も整わないまま、語ることをやめなかった瞬間。
そのあとで、
気づけば「光が現れてしまっていた」。
それが、私の言葉の立ち上がりである。
この二つの語りは、
同じ福音を指し示しながら、
異なる方向から照らしている。
神父の説教が示すのは、
光の源がどこにあるのかという神学であり、
私の言葉が問い続けているのは、
その光がどのような場所で、どのように現れてしまうのかという実存である。
重要なのは、
どちらも「人間の力で光を作れる」とは語っていない点だ。
神父の説教においては、
光は神から与えられるものとして。
私の言葉においては、
人間の力が崩れたあとにしか現れないものとして。
言葉は違うが、
人間中心主義を退けている点で、
両者は深く一致している。
この意味で、
私の言葉は説教に対する批評ではない。
説教を聞いたあと、
生活の中で残り続ける問いであり、
十字架を引き受けた場所から滲み出てくる応答である。
「地の塩、世の光」という言葉は、
教会の中心で語られることで秩序を与えられ、
その外側で生きられることで、
はじめて傷を持った現実に触れる。
その両方があってこそ、
十字架と復活は、
抽象ではなく、
生きられる福音として立ち上がるのだと思う。
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